Aine music school 代表の福島です。
ここの所、『自分はどのような先生になりたいのか?』をずっと考えていました。
もちろん私の中で、ピアノを教える事だけに特化した中でのピアノの先生像はありますし、生徒にとってピアノが長い人生を通して拠り所となってほしい、という思いで、自分も常に学びながらこの仕事をしているのは常に変わりません。
しかし、子どもの人生に関わっている、という視点で見直したときに、ただピアノが上達するための存在でいいの?という疑問が湧いてきたのです。そしてその課題(私はこの言葉が好きで積極的に使います)を与えてくれたのは、一人の生徒でした。
小学生の導入期につまずいた出来事
小学校2年生、ピアノ歴3か月のAちゃん。普段は活発で、道で私を見かけると、「せんせ~い!」と駆け寄る元気な女の子です。
レッスンではピアノランドをやっていて、ピアノを弾く準備段階として、「指追いゲーム」をしていました。
(※樹原涼子さんの提唱する「二段導入法」では、準備段階として「見る」「聴く」「歌う」「動く」を4つの柱としてバランスよく身に付け、その後実際にピアノを弾くことで、最初から音楽的に演奏させることを目的としています。)
もう何回かやっている指追いゲーム。理解してやっているのを確認済みでした。
しかし、その日はなかなかやろうとしませんでした。やり始めても、明らかに乗り気じゃない様子。
私はこれ以上同じことをさせても意味がないと思い、「なぜ、できることなのにわざと違うことをのするか」
を本人に厳しく問いました。
これは、未就学児にはせず、小学生以上の子には同じようにします。
なぜ厳しく言ったかというと、ただ課題をやらないというだけでなく、ピアノの蓋は危ないから手をかけないでね、と再三お願いしても本気で聞き入れなかった、などの経緯があります。
Aちゃんは、初めての習い事がピアノだったのもあり、学校の外での先生と生徒という関係性をそもそも理解していなかったのかもしれません。
Aちゃんは厳しく言われて一か所を睨みながらぽろっと涙を流しました。
言われてすぐ涙を流すという事は、言われていることが本人が意図的にしていた、という事です。
もちろん涙を流させる事は避けたいですし、そうなる前にもっといい方法があったんじゃないかなあ、という思いが頭を過りました。
ただ、そこで私の態度がブレてしまっては、敏感な子どもは直ぐに見抜き、自分に対して本気じゃないのかなぁと思うと思うんです。
しかし一方で、私は厳しい態度を取りながら、同時に自分のレッスンスタイルを見直す必要性も感じていました。
Aちゃんが、ピアノ自体は好きな様子であるけど、楽譜を読むことにあまり興味がないのか、拒否反応を起こしているのかをきちんと見極めなければいけない、と思いました。
河合隼雄さんの著書を読んで
そのレッスンの数日後、児童館で子どもといたときのこと。帰り際に息子が「本を借りたい」と言うので図書コーナーに行きました。
息子が本を選んでいる間、私は子育てに関する大人のコーナーを眺めていました。そこで手に取ったのは、心理学者でありユング派心理療法を確立した、故 河合隼雄さんの『こどもはおもしろい』という本でした。
この本は、小中学校の先生や教育に携わる方と河合さんの対談本です。先生が通り一遍のやり方ではない授業を展開し、子どもたちの様子を観察し、子どもの個性を潰さず、心の発達を促すために試行錯誤するさまを先生が語ります。そして、現代における教育の問題点や課題を河合さんご自身の考えとともにまとめておられます。
子どもの心理発達に関する本などから遠のいていた自分がいましたが、なぜかその時はピンときて、息子の本と共に借りて読みました。
ちょうど私が小学生の頃に出された本なので、その中に出てくる生徒たちのエピソードは、私自身の小学生時代と同時期になります。
読んでみて感銘を受けたのは、先生自身が、何が正解かを分からないまま、自身の直感を頼りに個性的な授業を作り上げていることです。
それは、『教え込む』ことよりも『育つ』ことが、どの先生にも共通した認識があるように思いました。
私は義務教育において、創造的な授業は受けたことがあまりないし、答えを先に知っておくことで安心していたタイプだったので、その先生の授業を受けていたとしても、性に合わなかったかもしれないな、と思いました。
個性という言葉がこの本にはよく出てくるのですが、当時のそういったものを大事にしようとする気配を生意気にも疎ましく思いながらも、もしかしたらそういった教えられ方をされていれば、私自身がどういう変化を起こしたかを、タイムスリップして知りたくもなりました。
ここで大事なポイントは、先生のやり方が正しいか正しくないか、ではないという事です。
先生自身が知識を教え込むことに偏らず、自ら進んで調べ体験しながら自分の言葉で述べる、というプロセスを、周囲の反対に合いながらも展開し、やがて支持を仰いでいく様子が、すごくドラマティックだな、と思いました。
「これでいいのか?」と自問自答し、生徒の反応にうろたえ、手ごたえを掴み、心で生徒と対峙している姿を見せることで、生身としての先生の姿が、子ども達に何らかの反応を起こし、変化を促していく。先生自身が子どもから学んでいく様子は、「教える」という先生の枠を超えた次元にある、本物の愛情だと思いました。
正解はもとめなくていい
一連の体験を通して、一つの結論が浮かび上がりました。
それは、講師は、葛藤状態の中で悩みながら対処法を決定してもいい、という事。
むしろそう在ることが自然であり、臨機応変さを生み出すのかもしれません。
それを繰り返していくことで講師自身の個性も磨かれていく。
河合さんは、生徒だけでなく先生こそ個性を磨くべき、とおっしゃっています。
個性とは、何かをするときに確信を持てなくても実際に実践し続ける事で磨かれていくもの。
その意味を噛みしめながら、私も生身の人間として自分と対峙していくことが、結果生徒さんのためになるのだ、自分の中に落とし込みました。
私は正しいことをさせようとだけしていた自分と、年齢で精神的な発達を区切っていた自分を反省し、メソッドに囚われることなく、自分なりに子どもと接していきたいと、思いを新たにしました。
Aちゃんは、一度レッスンを休み、その次の週にまた来ました。
私は、来た時にぎゅっとハグをして、そのあとは、しばらくお喋りしました。
いつもやる準備運動をせず、いきなりピアノを弾き、連弾や即興的なことをして楽しみました。
合間に楽譜を置きましたが、読もうとしませんでした。
「わかった、待ってるね」
と、心でつぶやきました。