子どもの発達・個性に応じたピアノ講師の役割とは

福島です。

私はこれまでピアノを教えるノウハウを、様々な教材を研究したり、音楽系のセミナーに参加するなどして学んできました。

これは今後もピアノを教える立場である以上、ずっと続いていくであろう、奥深く楽しい学びです。

しかし、これと並行して学んでいかなくてはいけないなと思うことがあります。

それは、子どもの発達心理です。

特に、小学生以上の発達について学んでいく必要性を感じています。

 

日々の中で、子どもたちは様々な課題を私に与えてくれます。

習い事というのはピアノに限らず、本人の意思で始めていない場合も多々あります。

また、初めての習い事で、「習い事」という概念がない、、つまり、マンツーマンでの先生と生徒の関係性がなかなか理解できない状態が長く続いてしまうケースがあります。

 

『教育』。それは子育てと同じで正解がなく、生身の人間を前に常に試行錯誤していくことだと思います。

今回は、私が今現在、生徒である子ども達の成長と、講師として気づいたことお伝えしようと思います。

 

生徒が〇〇してくれるのが前提とは限らない

 

音楽のセミナーの内容や教材で教えられていることというのは、「こちらが投げかけたアクションに対して生徒が何らかのリアクションをする」という前提で進んでいきます。

例えば、『教える』ということはこちらが知っていることを知らない者に対して教え込ませる、「ティーチング」です。

昔はそれで良かった、というか、それ以外のやり方の選択肢はなかったと思うのですが、近年は教え方も多様化しており、自発的行動を求める「コーチング」も指導に取り入れられるようになってきました。

例えば、うまくいかない所があったとき。先生が生徒に最初から「ここがうまくできてないわよ。」と伝えるのではなく、

「どうすればスムーズに弾けるようになるかしら?」といった具合に、生徒から答えを導き出させるのです。

しかしこれも一つの前提に基づいています。それは、生徒が「ちゃんと答える」という前提です。

 

質問に答えられない子も一定数いる

 

でも、これも個性なんですね。個性とは、分かりやすく表に自分の意思が現れるものではない、常々私は思っています。

確かに、礼儀やマナーにおいて、はっきり返事をする、という事は好ましいですし、武道やスポーツなどではそこをまず重要視して、ある意味訓練によって出来るようにする、という過程を経る事もあると思います。

質問といっても、私が小さいときされた、「曲のイメージを文章にして瞬時に答える」という、一体何のレッスンなんだろう?と思わずにはいられない抽象的な質問ではなく、

「個々の音符は何音符?」という単純な質問にも固まってしまう、という状態も含めて、マンツーマンになると声が出せなくなる、という子もいるんですね。

そこで、どういう対応をするべきかわたしの葛藤が始まるわけですが、やはりそのような時は、親御さんとコミュニケーションが一番だな、と思い、レッスンの後などに普段の様子などを教えてもらったりしています。

もしかしたら集団だったら答えているのかもしれないし、相手が先生だろうと家族であろうと、質問されるのが苦手、なのかもしれません。

大人になってくると段々と社会性を身に付け、それ相応なことができるようになっていきますが、子どもは自分の性質に素直なので、最初から、「こうあるべき」という頭で接しないということを心がけています。

というのも、私も答えられないタイプだったので、小さい時くらいは元々の性質に素直に生きてほしいな、というのが根本にあるんですね。

このような発達の個性を軽く見ないことで、一つのやり方や教え方にはまらないで子どもと接していく先生としての役割を加味していかなければいけないな、と自分に課題を強いています。

 

ちょっとイレギュラーな私の子育てライフ

 

ここで、少し私の子育ての話を挟ませてください。

私には子供が二人います。一人はシュタイナーの幼稚園に通い、もう一人は一般の保育園に通いました。

二人を通わせている間、まったくの異世界同士の空間を毎日自転車で行き来していました。

シュタイナー園にいると一般が異世界に感じ、保育園に行くとシュタイナーってやっぱり異世界だなぁ、、といった具合です。

なかなかこういう選択をする母親も世間的に珍しいんではないかと思います(笑)

なぜこのような通わせ方をしたかについては折り入っていつかお話ししようと思うので省きますが、シュタイナーを経験できたことは親である私にとっても特別なことだったのは間違いありません。

私自身はあまり一つの色に染まるのが得意ではありません。そういう性格なのもあり、オルタナティブ教育を直に経験しながらも、長い目で見て子どもが社会の中でどのように生きていってほしいかを俯瞰して考えていた所はありました。

本ではシュタイナー以外では、モンテッソーリ教育(日本ではこちらの方が有名かもしれません)やアドラー心理学系をいくつか読みました。

〇〇教育というと、そのやり方が一番正しいんだ、という方向に無意識に引きずられがちなのですが、それはちょっと避けたいな、という気持ちはいつもどこかで持っていました。

一般を知りながら特殊にも浸かっていることで、結果自分の中で子育ての価値観のバランスを保っているようなところがありました。

下の子の保育園のお迎えに行くと、「親の姿はこうあるべき」という、一見柔らかい雰囲気の中にある緊張感が外れて、ちょっとホッとしている自分もいたのを白状します。(笑)

 

魅力的な子育て法はいくつもあるし、育児のマニュアル本的なものもたくさんあります。

しかし結局一番大事なのは、本の中に書かれていることにがんじがらめになることではなく、目の前の生身のあなた(子ども)をよく見て、そしてわたしがどう在るべきなのか。です。

母親としてこうあるべきなんじゃないじゃ、とか、周りと比べてできる、できないに拘るのははっきり言って時間の無駄です。

お母さんが楽しい姿を見せないと、子どもにも伝わっちゃいますよね。

だから、楽しむこと。これが一番大事なんだな、ということに帰着しての「今」です。

だから、子どもが大事=自分自身を生きる この方程式につながるんだと思います。

 

まとめ

 

毎日会う生徒たち。当たり前ですが本当にみんな個性があります。

あくまでピアノを習いに来てくれているわけですが、目の前の子どもを一個の生身の人間として接するには、週一45分のレッスンでは正直難しい。やはり、教えたいことはいっぱいある。

でも、子どもたちのちょっとした変化を感じると、成長がうれしくなったり、何か悩んでるのかなー、と思えばちょっと談笑して気持ちをほぐしたり、
逆に聞いてもらったり、(笑)、そんな余白も時として必要な時間かな、と思っています。

今回はまとまりが薄く、テーマが不安定でしたが、私の考えるピアノを教える以前の講師としての役割について連ねてみました。

 

 

 

 

 

 

おすすめ記事